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大円寺|文京区向丘にある曹洞宗寺院

大円寺の概要

曹洞宗寺院の大円寺は、金龍山と号します。大円寺は、上州茂林寺十二世久山正雄大和尚(寛永7年1630年寂)を開山として、石河土佐守勝政が開基となり、神田柳原に慶長2年(1597)創建、慶安2年(1649)当地へ移転したといいます。境内には、”八百屋お七”にちなむほうろく地蔵の他、高島秋帆、斉藤緑雨の墓所がある他、昭和新撰江戸三十三観音霊場23番、東京三十三観音霊場26番札所となっています。

大円寺
大円寺の概要
山号 金龍山
院号 -
寺号 大円寺
住所 文京区向丘1-11-3
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



大円寺の縁起

大円寺は、上州茂林寺十二世久山正雄大和尚(寛永7年1630年寂)を開山として、石河土佐守勝政が開基となり、神田柳原に慶長2年(1597)創建、慶安2年(1649)当地へ移転したといいます。

本郷區史による大円寺の縁起

駒込東片町に在り、館林茂林寺末、金龍山と號す、慶長二年幕臣石河土佐守勝政(三千七百石萬治二年歿)の久山正雄(茂林寺十二世寛永七年寂)を開山とし神田柳原に創始する所で慶安二年此地に移つた。堂後に仁徳天皇御陵と稱する塔あり、門前に炮烙地蔵がある。高島秋帆(第七編参照)村士淡斎(福山侯儒官、名は宗殖、彌左衛門と稱す明和九年歿七十三)小松原翠渓(江戸の畫家名は貞、貞四郎と稱す、天保五年歿五十四)同翠湖(翠渓の男、畫家名は誠義通稱は擔蔵希唐庵と號す)同静窠(歌人名は亘天保十四年歿、三十二)梅迺家鶴壽(狂歌師通稱室田亦兵衛、慶應元年歿六十五)の墓がある。(本郷區史より)

文京区史跡さんぽ実施報告書による大円寺の縁起

曹洞宗の寺で、開創は慶長2年(一五九七)という。山門正面に「炮烙地蔵尊」が安置されている。頭痛や悩み事があるとき、炮烙を供え祈願すると、願いごとがかなうといわれる。炮烙は俸祿にも通じ、最近はサラリーマンの姿も見受けられる。
八百屋お七の事件も、ここからの出火が原因であった。地蔵尊はお七の大罪を救うため、熟せられた胞賂を頭に乗せ、お七の身代わりとして、焼かれる苦しみに耐える地蔵として安置された。享保4年(一七一九) 渡辺九兵衛がお七供養にと寄進したといわれている。
墓域には高島秋帆、斉藤緑雨の墓がある。
高嶋秋帆の墓
高島秋帆は、寛政10年(一七九八)長崎町年寄、高島四郎兵衛茂妃の三男として長崎に生まれた。文政6年(一八二三)シーボレトと共に來日したオランダ商館長スチュルレルから西洋砲術について学び,大いに啓発された。秋帆26歳の時である。天保11年(一八四〇)アへン戦争が起こった。圧倒的な火力を持つ英国の前に、清国はもろくも敗れ去った。これを知り、秋帆は日本にも災いがくる恐れがあるので、西洋の進んだ軍事技術を導入し、海防の必要性を説いた。翌12年(一八四一)老中水野忠邦の命で、江戸郊外徳丸ケ原(板橋区高島平)で、西洋式砲術訓練を行った。訓練に参加した者は、秋帆以下百名、見物には諸大名はじめ、数千名が徳丸ケ原をうめた。日本で最初の西洋式訓練は、実戦さながらの迫力があり、秋帆の名を全国に高めた。慶応2年(一八六六)小十人町の屋敷(白山l-22)で没した。享年69歳であった。
斎藤緑雨の墓
斎藤緑雨は慶応3年(一八六七)藤堂藩の御典医の長男として伊勢国(現鈴鹿市)に生まれた。坪内逍遥の『小説神髄』を読み、文学の道を志した。幸田露伴、森鴎外を知り、作家活動に入る。「文芸評論雑誌」〝めざまし草〟で、鴎外、露伴、緑雨の三人が新進作家の作品に対する合評を行った。これが「三人冗語」である。この中で樋口一葉の『たけくらべ』を絶賛した。のみならず、一葉の福山町を訪れ、その病中から病後まで、樋口家のため尽力した。
樋口一葉の晶(明治29年5月29日)には、緑雨について次のような文がある。
「正太夫、としは二十九、やせ姿の面やう、すご味を帯びて、唯ロもとにいい難き愛敬あり。
この男、かたきに取っても、いとおもしろし、みかたにつきなば、なおさらにおかすかるべく、眉山(川上)、禿木(平田)が気骨なきにくらべ、一段の上ぞとは見えぬ。」(文京区史跡さんぽ実施報告書より)

東京名所図会による大円寺の縁起

大圓寺
駒込東片町六十六番地にあり、金龍山と號す、曹洞宗通幻派の小本寺にして、上州邑楽郡館林茂林寺の末派なり、久山正雄大和尚(寛永七年遷化)を開山とし、慶長二年神田柳原に創建し、慶安二年此地に移る、堂後に仁徳天皇御陵と云傳へたる古塔あり、門前に炮烙地蔵あり、墓地(六十七番地)に高島秋帆の墓あり。(東京名所図会より)


大円寺所蔵の文化財

  • ほうろく地蔵
  • 高嶋秋帆の墓(國指定史跡)
  • 斎藤緑雨の墓

ほうろく地蔵

”八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和二年(一六八二)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた”お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した炮烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保四年(一七一九)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。
お七が天和の大火の時に避難し、墓もある円乗寺はすぐ近くにある。(文京区教育委員会掲示より)

高嶋秋帆の墓

秋帆、1798〜1866(寛政10〜慶応2)長崎の人、諱は茂敦、通称四郎大夫。秋帆は号。幕末の砲術家。アヘン戦争で清国が敗れたことを知り幕府に洋式砲術の採用を建議し、1841年(天保12)武州徳丸原(板橋区高島平あたり)で洋式砲術演習を行った。
欲念鳥居耀蔵のいわれなき訴えによって投獄され、のち追放に処せられた。ペリー来航とともに許されて、1857年(安政4)富士見御宝番・兼講武所砲術師範役を命ぜられた。(文京区教育委員会掲示より)

斎藤緑雨の墓

緑雨、1867〜1904(慶応3〜明治37)。三重県の人。名は賢。別号を正直正太夫。明治時代の小説家で、戯作風の「油地獄」「かくれんぼ」などで文壇に名をなした。
かたわら種々の新聞に関係して分筆を振るう。終世妻子を持たず、俗塵に妥協することなく、文学一筋に生きた人である。森鴎外・幸田露伴とともに「めざまし草」の匿名文芸批評執筆者の一人で、樋口一葉の「たけくらべ」を絶賛した。墓碑銘は幸田露伴書(文京区教育委員会掲示より)

大円寺の周辺図



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