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慈眼院|文京区小石川にある浄土宗寺院、沢蔵司稲荷

慈眼院の概要

浄土宗寺院の慈眼院は、文京区小石川にある寺院です。慈眼院の創建年代は不詳ですが、元和6年(1620)に沢蔵司稲荷の別当を慈眼院としたのが伝通院中興開山廓山上人ということから、その頃には慈眼院が創建していたと推定できます。沢蔵司稲荷の沢蔵司は。僅か三年で浄土宗の奥義を極めたという秀才で、「澤蔵司てんぷらそばがお気に入り」と川柳に読まれたほど著名な僧だったといいます。

慈眼院
慈眼院の概要
山号 -
院号 慈眼院
寺号 -
住所 文京区小石川3-17-12
本尊 阿弥陀如来像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慈眼院の縁起

慈眼院は、伝通院中興開山廓山上人が沢蔵司稲荷の別当として元和6年(1620)創建したといいますす。沢蔵司稲荷の沢蔵司は。澤蔵司は、僅か三年で浄土宗の奥義を極めたという秀才で、「澤蔵司てんぷらそばがお気に入り」と川柳に読まれたほど著名な僧だったといいます。

「小石川區史」による慈眼院の縁起

浄土宗鎮西派、傳通院末。本尊澤蔵司十一面観世音菩薩。當寺は元傳通院の塔中で、その開創は元和六年、傳通院中興第一世正譽廓山上人が今の地に澤蔵司十一面観世音を勧請したのに始まる。此の澤蔵司稲荷の縁起については、『江戸名所圖會』傳通院の條に『多久蔵主稲荷社 境内裏門の方にあり。往古狐僧に化し、自ら多久蔵主と稱して、夜な夜な學寮に来り、法を論ずといへり。後に稲荷に勧請して、當寺の護法佛とせり』とあり。また『江戸志』には『多久蔵主稲荷、別當甚蓮社。略縁起に云ふ。抑々當社は往時駒込吉祥寺、和田倉門の内にありし時より、彼寺に鎮座ありし。其後十八檀林御定ありし時、當山御造營中興。正譽廓山上人住職の時、學寮の内に極山和尚と申所化あり。元和四年午四月、ある夜山主上人を始め、其外極山和尚同學の僧へ夢中の告ありて、我は是吉祥寺に住む者なり、浄土の一宗を開かん事を願ふこと年久し。幸なるかな當山は口學の檀林なれば、入學せむ事を願ふ故、明朝登山すべし、願望達したまへと告ありし。翌兆極山和尚の學寮に一僧来りて謁見あり。此の事を山主に申せば、廓山上人も夢中の其の相合する事、智道兼備の人なれば、彼僧は権者なりとて入寺を許したまふ。彼多久蔵主の智徳他に勝れ、諸人皆尊敬す。其後三ヶ年の間、學席を経てある夜の夢に、我は誠は稲荷大明神なり、登山せし事我大願あり、國家安全にして、僧俗の願望を成さむことを願ふによつて、小社を作り與へ給ふべし。永代當山守護神となるべしと示現し、白狐の形を顕したまふ。即ち多久蔵司所化の時、持たまふ守本尊十一面観音春日作の像を本地として、境内に鎮座なしたまふ』などと記されてゐる。江戸時代より市民の参詣する者多く、今にその繁榮を續けてゐる。現本堂は明治四十一年の建立にかかる。猶ほ境内には澤蔵司の椋の木と喧傳せられてゐる大古木がある。樹の周圍一丈六尺、高さ七丈五尺、樹齢數百年で、本幹は直立し、地上一丈五尺の邊から枝が四方に延びて均整を保ち、枝振が頗るよい。稲荷の神木として大切に保護されてゐる。(「小石川區史」より)

文京区教育委員会掲示による慈眼院の縁起

伝通院の学寮(栴談林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和6年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。
「そもそも余は千代田城の内の稲荷大明神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山を守護して、恩に報いよう。」
と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)
そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。
「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐の棲む)の洞穴あり」とある。今も霊窟と称する窪地があり、奥に洞穴があって、稲荷が祭られている。
伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。
沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。
また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。
沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り(古川柳)(文京区教育委員会掲示より)

慈眼院境内の澤蔵司稲荷について

澤蔵司稲荷は伝通院の塔頭の一つである慈眼院内の稲荷である。澤蔵司は多久蔵主とも書かれている。江戸砂子によれば、「多久蔵主稲荷社、境内にあり、霊験のやしろ也。多久蔵主という狐ありて、八、九十年前まで、夜な夜な学寮に来りて法を論ずるという。これを稲荷に合せ、まつれりとぞ」とある。
また新撰東京名所図会には、「賽客多く、門前には納幟林立す。東裏の崖下に狐棲の洞穴あり。其の磴道には小形の鳥居列植して門を成せり。」と記されている。いずれも弧にまつわる伝承である。
澤蔵司というのは、伝通院の学寮(関東壇林という修行所)にいた修行僧である。浄土の一宗を開こうと入寮したが、わずか3年で浄土宗の奥義を極めた。元和6年(1620)5月7日、澤蔵司が、学寮長樋山和尚の夢枕に立って言った。「我はまことの千代田の城の稲荷大明神である。学寮に入ったのは、かねがね浄土宗の学問を志したいと願っていた。今、大願をはたした。今より元の神にかえり、永久に当山を守護し、恩を報いよう」といって、白狐の姿に変じ、暁の雲に隠れた。
これを機に、伝通院の住職、郭山上人は澤蔵司稲荷を境内に祀り、慈眼院を別当寺とした。稲荷社の前に大きな椋の木がある。この木には沢蔵司の魂が宿るといわれている。
この木の近くに幸田露伴の住む蝸牛庵があった。露伴は二階の書斎から、この椋の緑を眺め、仕事の疲れを癒したという。
稲荷そば
澤蔵司てんぷらそばがお気に入り(古川柳)
伝通院の門前近くで、嶺目通りに画して、そば屋がある。今でも毎朝〝お初〟のそばを霊窟(おあな)という窪地に供えている。このいわれは、滞蔵司は、門前のそば屋によくそばを食べに来た。沢蔵司が来ると、必ず売り上げの中に、木の葉が混じっていたという。そば屋のご主人は沢蔵司が稲荷大明神であることを知り、以後、”お初”のそばをお供えするようにした。今日までこの習慣はつづいている。(「文京区史跡さんぽ実施報告書」より)


慈眼院の周辺図



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