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蓮華寺|文京区白山にある日蓮宗寺院

蓮華寺の概要

日蓮宗寺院の蓮華寺は、本松山と号します。蓮華寺は、当地の名主高橋図書が開基、安立院日雄上人が開山となり天正15年(1587)創建したといいます。かつては塔頭六坊を擁していた他、武家の檀家が多く、別名「武士寺」と言われていたといいます。

蓮華寺
蓮華寺の概要
山号 本松山
院号 -
寺号 蓮華寺
住所 文京区白山2-38-11
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 -



蓮華寺の縁起

蓮華寺は、当地の名主高橋図書が開基、安立院日雄上人が開山となり天正15年(1587)創建したといいます。かつては塔頭六坊を擁していた他、武家の檀家が多く、別名「武士寺」と言われていたといいます。

「小石川區史」による蓮華寺の縁起

本松山蓮華寺。日蓮宗静岡縣蓮永寺末。本尊十界勧請曼荼羅。當寺の開創は天正十五年で、開山は安立院日雄上人(元和五年九月九日寂)、開基は小石川の草分高橋圖書(寛永四年十二月十三日寂)である。指ケ谷屈指の巨刹として、江戸時代には仙應院、観成院、善行院、延壽院、謡泉坊、寂静坊の塔中六院があり、文政には境内古跡除地五千二百五十餘坪を有して大いに榮えてゐた。然るに明治以後塔中は多く廢絶し、今は只だ延壽院一坊を残すのみとなり、本坊も亦舊時の盛観なく、唯だ指ケ谷大通りに臨む仁王門と境内にある開山上人手植ゑと傳へるモツコクの巨樹に、昔の俤を傳へてゐるのみである。(「小石川區史」より)

東京名所図会による蓮華寺の縁起

蓮華寺。本松山と號す。小石川指ヶ谷二十八番地にあり。日蓮宗。駿河國蓮永寺末。現住職堀尾秀然。
寺門。東の方廿七番地と四十番地の間(指ヶ谷町通)にあり。之を舊蓮華寺の総門となす。寺内右に善行院(註:現仙行寺)。左に延壽院。仙應院(註:現仙行寺)あり。往時の塔頭にして分末寺として存せり。石階登ること二十八級。其登り盡す所。巍然たる一大楼門を得。是れ仁王門。
小石川志料(三)に云。仁王門。門を入りて数十の石階上。本堂の前にあり。當寺中興本慈院日以の代に建たり。上に経王梵閣。源恭山穎書と云額あり。
門は間口三間半。奥行二間。二重棰。枡組。勾欄付。左輔右弼阿吽の像を置く。明治三十年回禄の災あり。
本堂庫裡盡く消失す。楼門獨り災厄を免かれきと。経王梵閣の扁額。文字鮮やかに讀まる。楼門の邊。地位翼然として西片町(本郷駒込)の高阜に對し指ヶ谷の民家を俯瞰す。
楼門の内。左に木檞あり。圍八尺。枝葉之に適ふ。家光公時代の遺物なるよし。口碑に傳へたり。樹下釈迦の石像を安置す。正面は本堂。右に折廻して庫裡あり。其左裏門に通ず。裏門は北の方蓮華寺坂にあり。又本堂の傍に小宇。歯痛守護熊王大善神。當山守護本松大善神を合祀す。後者は依然本松大明神と號し。陀枳尼天なり。浦山に年経たる狐栖みて。害をなすこと屡次なり。蓮華寺何代かの祖。封じて當山の守護となせるよし現住職は語れり。
當山の舊記は火災に焼失して。今に一物をも傳へずといへり。左に諸書散見する所に據りて。其古を考ふるに。
新編江戸志に云。開山安立院日雄上人。天正十五丁亥年起立。
塔頭。観成院。仙應院。延壽坊。善行坊。瑞泉坊
と。延壽坊。善行坊は院號を稱し。観成院。瑞泉坊は廃絶せり。
又云。鬼子母神。
閻魔堂。小野篁作。昔河野氏より奉納。
鬼子母神。閻魔堂とも。今あらず。
小石川志料(四)に云。本松山蓮華寺。法華。駿河國蓮永寺末指ヶ谷一丁目。
其所所蔵記
蓮華寺屋敷竪百間横四十三間之處。傳通院殿為御菩提所令免許。傳通院中興五世。
慶安元戌子年八月廿九日
又云。寛文十年記。其所蔵。
除地従先年除に付亥年河原十郎殿御除に候
一八十三年 蓮華寺
表六十間。裏百二十間
本堂五間六間。本尊三寶祖師。開基は當地の名主高橋茂吉郎の祖先なるよし。位牌堂に左の位牌あり。
當寺開闢檀那證真院日前高橋図書
永宜雲院妙前日意。図書妻。正保三年戊年十一月三日。
覺善院了悟日正。嫡子高橋主膳。明暦二年申六月廿八日。
高橋氏は。此地の草分名主なり。泰平御江戸町鑑に。傳通院領秋元新七郎。高橋安右衛門。両人月番持と見ゆ。安右衛門は図書の裔なり。歴代の位牌。當山にあり。
往時。仁王門の並びに鐘楼ありき。是も日以の代に建てたりとて。小石川志料に其銘を掲ぐ(銘文略す)楼焼けて最高せず。
境内に古井あり。鑑の井と稱し。家康、家光両将軍が其甚だ清水なるを嘆美せるよし傳へて。舊跡を保存す。蓮華寺鏡の井の事。紫の一本に載せず小石川志料に家光が放鷹の節蓮華寺境内へ御立寄ありし云々。寺僧物語れりと記しあれば。井の説も。當寺の住僧が後の世の語草なるべく。明治前蓮華寺の境内は五千二百五十三坪を算したりしも。其後上地となりて。今は境内千百四十三坪餘。同崖地百六十四坪に過ぎず。墓地は廿九番地にありて六百七十坪を有せり。(東京名所図会より)

境内掲示による蓮華寺の縁起

日蓮宗本松山蓮華寺由来
本松山蓮華寺は駿河国・蓮永寺(現在の静岡県静岡市内)の末寺として、天正十五年(西暦一五八七年)法華僧・安立院日雄上人によって開山されました。
開基は当地の名主・高橋図書氏とされています。境内は、二十八段の石段を昇ると、仁王門があり、第十六世日以上人の代には、大鐘を収める鐘楼堂が建立され、鬱蒼とした樹木に囲まれ、静寂な中に、荘厳さと重厚さを兼ね備えた名刹として存しておりました。
現在、本堂の傍に小宇歯痛守護熊王大善神・当山守護本松大善神が合祀されておりますが、以前は本松大明神とされ陀枳尼天でした。当山裏山に年老いた狐が住みつき、害を及ぼすことが多かった為、何代かの上人がその狐を封じ込んで守護とされました。
江戸時代・徳川三代将軍家光公は、この白山の地を選ばれ、しばしば鷹狩りに来られました。家光公は当山境内の古井戸(別名・鑑の井戸)から滾々と涌き出る清水を大層お気に召され、楽しまれた様子が伺えます。その折り、現在の本堂前の木槲をお手植えになられ、その樹木にお釈迦さまの石像を安置されたと記述されております。ある時家光公は、歯が傷み泣きじゃくる少女に出会った際、前述の清水をお稲荷様に捧げ少女の口に含ませましたところ、その傷みはたちどころに癒え、この評判は町中にひろまり、多くの参詣者で賑わいを見せました。
また当山は、別名「武士寺」と言われ、庶民が檀家になることが難しいとされる時代もありました。現在でも江戸時代に建てられた墓所が多く見受けられますのも当時を思い起こす貴重なものと申せましょう。
しかし、明和年間(西暦一七七六年頃)火災に遭遇し、その貴重な建造物のほとんどが焼失。その後、代々の上人の手により復興されましたが、現在は往時の面影を残すものとしては、前述の家光公ゆかりの木槲と、石像だけとなりました。
明治時代になり、境内地の多くは上地(政府に土地を納める)となり、昭和時代に入り、再度本堂・庫裡が建立されましたが、第二次世界大戦で再び焼失し昭和四十三年、第三十世日輝上人の代に再建されました。(境内掲示より)


蓮華寺の周辺図



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