牛天神北野神社|文京区春日の神社

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牛天神北野神社|東都七福神

牛天神北野神社の概要

牛天神北野神社は、文教育春日にある北野神社です。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)の春、源頼朝が東国経営の際、船をこの台地の松につなぎとめ、まどろんでいたとき、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を授けるとご神託を受け、 同年の秋、長男頼家が誕生し、翌年には平家を西海に追はらうことが出来たことから、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建したといいます。東都七福神の一つです。

牛天神北野神社
牛天神北野神社の概要
社号 北野神社
祭神 菅原道真公
相殿 -
境内社 太田神社、高木神社
住所 文京区春日1-5-2
祭日 例大祭5月25日
備考 旧村社



牛天神北野神社の由緒

牛天神北野神社は、寿永元年(1182)の春、源頼朝が東国経営の際、船をこの台地の松につなぎとめ、まどろんでいたとき、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を授けるとご神託を受け、 同年の秋、長男頼家が誕生し、翌年には平家を西海に追はらうことが出来たことから、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建したといいます。

境内掲示による牛天神北野神社の由緒

当社は寿永3年の昔、右大将 源頼朝御東国追討の時、此処の入江の松に船を繋ぎ和波を待つ。その間夢に菅神牛に乗りて現はれ、頼朝卿に二つの幸のあらんことを告げ、武運満足の後は、必らずや社を営み報ゆべしと託し給ふ。頼朝卿夢覚めて傍を見れば、一つの岩石ありて夢の中に菅神の乗り給ひし牛に似たり。依りて是を奇異とせしが、果して同年の秋頼家卿誕生あり。更に翌年には動かずして、平家を悉く退け国を鎮定せり。その報寶として此処に、御神を勧請ありて御神領等を寄進す。因て御創立はこの年元暦元年なりと云ふ。(牛天神北野神社境内掲示より)

東京都神社名鑑による牛天神北野神社の由緒

社記にいう。寿永三年(二八四)の春、源頼朝東国追討の時、ここの入江の松に船をつなぎ、波のなぐのを待つ間、夢に菅神牛に乗って現われ、頼朝に二つの吉事のあることを告げ、武運満足の後は、社を営み報ゆべしと託される。夢覚めて傍を見れば、一つの岩石があり、菅神の乗られた牛に似ているので、これを奇瑞とした。はたして同年秋頼家誕生し、翌年には動かずして平家ことごとく敗る。その報賽として元暦元年(一一八四)ここに御神を勧請し、神領等を寄進したという。。(東京都神社名鑑より)

「小石川區史」による牛天神北野神社の由緒

大和町に在り、元は金杉天神と稱し、又一般には牛天神ともいはれてゐる。祭神は菅原道真公、社傳に依れば、元暦元年源賴朝の創建といふ。『文政書上』及び『江戸名所圖會』には、賴朝が東國追討の時、此の地に於いて、夢に菅神牛に乗じ賴朝に二つの吉事有る事をしめし給ひ、後果して靈驗が表れたので、元暦元年當社を建立したとある。
また『南向茶話』には社地は元今より東に在つたが、寛永中水戸邸が出来た爲め今の地に移されたとある。江戸時代には龍門寺持で、境内は三千餘坪あり、其門前町附近は小石川に於ける有數の繁華地で、その有様は『江戸名所圖會』所載の牛天神社圖に依つて知る事が出来る。明治五年村社に列せられた。
今も昔ながらに高い石燈を登つて社前に額き、頭を回せば近くは諏訪町、飯田橋方面の雑沓と越川町、後楽園の幽邃とが直下に俯瞰され、更に遠く目を放てば、牛込、麹町、駿河臺等の近代的高層建築が樹間から隠見して、眺望こそ異れ、景勝の地たることは毫も昔に變らぬのである。(「小石川區史」より)

「文京区史跡さんぽ実施報告書」による牛天神北野神社の由緒

北野神社は〝菅原道真″を祭神とする。別名牛天神とか、金杉天神と呼んでいた。社殿は急な階段を上った高丘にある。境内には、天保11年(1840)の盥石や、元禄4年(1691)の石燈篭がある。山上の石の鳥居には文化6年(1809)の年号を読むことができる。
寺社の縁起によれば、寿永元年(1182)の春、源頼朝が東国経営の際、船をこの台地の松につなぎとめ、風波のおさまるのを待っていた。頼朝がまどろむ中に、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を授けると言った。頼朝が夢からさめると、近傍に一つの大岩があった。あたかも夢の中で菅神が乗った牛を、彷彿させるような形をしていた。これを牛石と呼んだ。
同年の秋、長男頼家が誕生し、翌年には平家を西海に追はらうことが出来、源家の力が大いに高まった。「是れは菅神の神示にちがいない。」と頼朝は元暦元年(1184)この地に社殿を造営した。
この縁起の話は江戸志に記載されていもものである。江戸砂子によれば、源頼朝でなく、北条氏康に菅神が牛に乗って現れたと記されている。牛石はもと社殿の裏の坂下にあったが、現在は社殿の前にある。当社の神宝である狛犬は運慶作で、水戸光圀の奉納という。
太田神社
北野神社の境内の、社務所の傍らに太田神社がある。創設年代は詳かではない。世の人は貧乏神と呼んだり、また別名、人望神と言ったりしている。
太田神社は貧乏神と言われた黒闇天女(弁財天の姉)を祀った。昔、小石川三百坂に幕府旗下の士某(太田?)がいた。家中これという不幸はないが、常に貧乏に苦しんでいた。一夜夢に神が現れ、お告げを伝えた。それによると、「我は貧乏神で、多年にわたり、この家に住んだ。もし、今から三日の内に、赤飯と油揚げを供え祭れば、福徳を授けよう」と。
その通りにすると、その家は万事慶福がつづき、裕福になった。士某は大変喜び、神像を彫刻して、牛天神に奉納した。
その後一人の大工が幕府の工事を請け負った。大工は祭神に祈った。そして、もし、願いが成就すれば神殿を造り奉ると約束した。請負も上手くはこび、大工は約束どおり、新しい祠を造り、その神像を遷座させた。
今までに貧乏神と呼ばれていたが、以後、福の神となり、近隣の人々から参詣されるようになった。貧乏神が人望神と呼ばれるなど興味ある話である。
中島歌子の歌碑
境内に中島歌子の歌碑がある。雪中竹の句である。
「雪のうちに、根ざしかためて若竹の 生ひ出むとしの 光をぞ思ふ」
筆は弟子の鍋島侯夫人栄子である。
北野神社の境内が選ばれるのは、弟子の樋口一葉の日記によれば、歌子の母の葬儀が神式で行われ、この社の宮司が祭主であったことによる。歌子の葬儀も神式であった。(「文京区史跡さんぽ実施報告書」より)


牛天神北野神社所蔵の文化財

  • 北野神社・中島歌子歌碑

北野神社・中島歌子歌碑

北野神社は、江戸時代金杉天神、俗に牛天神と呼ばれた。御祭神は菅原道真公である。
縁起によると、寿永元年(1182)源頼朝が東国経営のとき台地下の老松に舟をつなぎ、風波のしずまるのを待った。夢中に菅神(道真公)が現れて、二つの吉事があると伝えた。お告げの通り男子(頼家)が生まれ、平家を西海に追うことができた。頼朝は大いに喜び、元暦元年(1184)ここに社殿を造営したという。また、夢さめて菅神の立っていた跡に、牛の形をした石(牛石という)があった。(現在は社殿の前にある)
境内の南側に、中島歌子(1844-1903)の歌碑がある。歌子はすぐ近くの安藤坂の歌塾「萩の舎」の塾主である。
門下には、梨本宮妃、鍋島侯夫人や前田侯夫人など、上流中流層の婦人一、〇〇〇余人がいた。樋口一葉、三宅花圃らはその門弟である。
歌碑は歌子の死後、明治四二年(一九〇九)門下生によって建てられた。(文京区教育委員会掲示より)


牛天神北野神社の周辺図


参考資料

  • 東京都神社名鑑
  • 「小石川區史」