駒込富士神社|文京区本駒込の神社

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駒込富士神社|文京区本駒込の神社

駒込富士神社の概要

駒込富士神社は、文京区駒込にある富士神社です。駒込富士神社は、天正2年(1574)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、駿河の富士浅間社を勧請して、本郷村(元富士神社地)に創建しました。寛永6年(1629)、本郷の地が加賀藩前田家の上屋敷に充てられたため、前方後円墳のあった当地に移転しました。

駒込富士神社
駒込富士神社の概要
社号 富士神社
祭神 木花咲耶姫命
相殿 -
境内社 曽我霊社、小御嶽神社、下浅間神社、猿田彦祠
住所 文京区本駒込5-7-20
祭日 7月1日、鎮火祭8月26日
備考 -



駒込富士神社の由緒

駒込富士神社は、天正2年(1574)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、駿河の富士浅間社を勧請して、本郷村(元富士神社地)に創建しました。寛永6年(1629)、本郷の地が加賀藩前田家の上屋敷に充てられたため、前方後円墳のあった当地に移転しました。

「本郷區史」による駒込富士神社の由緒

富士神社
駒込神明町三八三番地に在る無格社で木花開耶姫命を祭神とし丈餘の塚上に鎮座して居る。創建年月不詳、或は曰ふ延文の頃今の社地を富士塚と唱へ富士大神を祭つたが、寛永五年に至り本郷前田邸内に入りたる富士社を遷して之に合祀すと(神社明細張東京通志)。往時参詣頗る多く六月一日に大市を立てゝ非常の繁榮を見、寶暦の頃には夏やみせぬ爲にとて俗間の童子等皆洗髪して之に詣でたと云ふ(塵塚談)。祭禮の當據夢藁蛇、唐團扇、五色網等を捌くは古くよりの風習で(江戸砂子)「名物鹿の子」内藤宿水巴の詠にも「子福者の戻りは重し富士團扇」とある。「江戸塵拾」は夢藁蛇を以て寶永の頃百姓喜八(新編武蔵風土記稿は之を上駒込村の民三左衛門とする)の作り出せる處で、疫病除として戸毎に購はれたと記して居る。(「本郷區史」より)

東京都神社名鑑による駒込富士神社の由緒

その昔、旧加賀前田侯の邸内(東京大学)に、駿河の富士浅間を勧請して祀られてあったものを、寛永五年(一六二八)この駒込の地に遷座したものである。戦前社伝に延文年間(一三五六-六一)の北あさ年号のある古碑があったが、戦災のため消滅した。社殿の敷地は前方後円の古墳であるらしく、俗に「富士塚」とも呼んでいる。正面崖には前田侯と関係のある加賀鳶をはじめ、鳶職仲間の奉納による献石が多く見られる。またその間に熔岩石を積んである。これは、いつのころにか富士山の麓より運んだもので、山獄信仰がいかに盛んであったか、これによっても明らかである。(東京都神社名鑑より)

新編武蔵風土記稿による駒込富士神社の由緒

(下駒込村)富士浅間社
一丈余の塚上に鎮座す、祭神木花開耶姫命身體秘して開扉せず、梵天帝釈天の二像を前立とす、本地佛三尊弥陀を置、寛文の頃記せる縁起に、天正元年五月本村戸右衛門牛久保隼人と云民、浅間の霊夢によりて本郷の内にありし古塚より、行基手刻の牛王にありし古塚より、行基手刻の牛王板及劔一振幣帛等を得たり、故に其所に一社を造立し富士浅間を勧請す、同き六月朔日社邊に市を立近郷の者群集せり、其後松平筑前守邸中に入しをもて寛永六年今の所に移れりと云、按に慶長十九年記せし見聞集に、神田山の近所本郷といふ所、昔より小塚の上に小祠一つ有て富士浅間立せ給ふといへとも、信敬せされば他人是を知す、然る所に近隣駒込と云里に人有て浅間駒込へ飛来り給ふといひて、塚を築き其上に草の庵を結ひ御幣を立おきつれば、まうての神群衆せり、本郷の里人是を見て我氏神を隣へ取られ羨む許なり、今見れは駒込の社立置し朱の玉垣前に大鳥居立ちしやう、殊勝に有て皆人これへ参る、神は人の敬ふに依て威を増と云事おもひ知れたり、霊験あらたにおはしますと云ならはし、近国他国の老若貴賎みな悉く駒込の富士浅間へ参詣し、六月一日大市立て繁昌すること前代未聞なりとあれば、慶長の頃既に当所へ移りしこと明けし、今も松平伊賀守邸中に舊跡ありと云、例祭毎年六月朔日前日より参詣の人群集す、此日小兒の貢物に麦藁をもて作りし、蛇を賈る、是は寛永の頃上駒込村の民三左衛門なるもの賈はじむ、或書に宝永年中近郷大に疫病流行せしに、此蛇を賈もてるものは其一家疫病の患なかりし故、弥もてはやされ今は当所の名物となれりと、又五色の綱及麦藁細工の唐団扇をも賈しか、団扇は今廃れたり、社寶に富士石奇妙石なと云石二顆あれとさせるものに非す、縁起に載し牛王板劔なとは失へりと云、本郷真光寺持なり。
幣殿、拝殿、供所。
下浅間社
蘆高飼犬の二神を相殿とす、又大口地蔵の二髪を安す。
末社。小御嶽、曽我社身禄働食行身禄働と唱り、是は富士行者六世にて、俗称は伊兵衛と云、伊藤氏にて伊勢国一志郡川上の人なり、天和三年十三歳にて江戸に来り油を賈を業とす、貞享四年富士行者月行なるものの弟子となりしより、駿河区に富士山に登ること四十五度に及ふ、享保十八年七月十三日富士山中嶋烏帽子岩と云所にて入定すと云。
不動堂。(新編武蔵風土記稿より)

境内掲示による駒込富士神社の由緒

富士神社はもと、旧本郷村にあった。天正元年(1573)本郷村名主木村万右衛門、同牛久保隼人の二人が、夢に木花咲耶姫命の姿を見て、翌年駿河の富士浅間社を勧請した。
寛永6年(1629)加賀藩前田候が上屋敷(現東京大学構内)を賜るにあたり、その地にあった浅間社はこの地に移転した。東京大学構内一帯は住居表示改正まで本富士町といっていた。
社伝によれば、延文年間(1356-61)には既に現在の社地は富士塚と呼び、大きな塚があったといわれる。この塚は一説によると、前方後円の古墳といわれる。
富士神社の祭神は、木花咲耶姫命で、氏子を持たず富士講組織で成り立っていた。
山嶽信仰として、近世中期頃から江戸市民の間に、富士講が多く発生した。旧5月末になると富士講の人々は、6月朔日の富士登拝の祈祷をするために当番の家に集まり、祭を行った。そして、富士の山開きには、講の代参人を送り、他の人は江戸の富士に詣でた。富士講の流行と共に、江戸には模型の「お富士さん」が多数出来た。文京区では、「駒込のお富士山」といわれるここと、護国寺の「音羽の富士」、白山神社の「白山の富士」があった。(駒込富士神社境内掲示より)


駒込富士神社の周辺図


参考資料

  • 東京都神社名鑑
  • 「本郷區史」
  • 新編武蔵風土記稿