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実相院|足立区伊興にある真言宗豊山派寺院

実相院の概要

真言宗豊山派寺院の実相院は、寶光山実相院横沼寺と号します。実相院は、天平年間行基菩薩による開山といわれ、当寺付近一帯に横沼と呼ばれていたことから横沼寺と寺号がついたといい、前九年後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願をし寺領を寄進したといいます。荒綾八十八ヶ所霊場41番札所、伊興七福神大黒天・弁財天・毘沙門天、武蔵国三十三ヶ所霊場23番、武蔵国八十八ヶ所霊場3番です。

実相院
実相院の概要
山号 寶光山
院号 実相院
寺号 横沼寺
住所 足立区伊興4-15-11
宗派 真言宗豊山派
本尊 聖観世音菩薩
葬儀・墓地 -
備考 荒綾八十八ヶ所霊場41番札所、伊興七福神大黒天・弁財天・毘沙門天、武蔵国三十三ヶ所霊場23番



実相院の縁起

実相院は、天平年間行基菩薩による開山といわれ、当寺付近一帯に横沼と呼ばれていたことから横沼寺と寺号がついたといい、前九年後三年の役では源頼義・義家父子が戦勝祈願をし寺領を寄進したといいます。

実相院掲示による実相院の縁起

往古当町は沼地で今尚一帯の地名を横沼と言う。天平年間行基菩薩が諸国行脚の砌此の地に錫を止めて池中に浮かぶ霊木を拾い上げ自ら大悲の尊像を刻んで一寺を創立し此の尊像を奉安した康平年間源頼義八幡太郎義家が安倍貞任追討の朝命を奉して当地に陣し、朝敵降伏並に戦捷を祈誓し乱平定後十有三町の地を寄附して境内とし相次いで武蔵守藤原式実も亦巨額の浄資を投じて荘厳なる堂塔と建立せられたが数十世を経て文永元年5月17日火災にて焼失現在の御堂は文永の末年当山の中興良盛法印の再建になったとの明治22年更に改築修繕したものです。
赤子育の由来は、母乳の不足に悩む人が当山の御供米を戴き皆御利益を賜ったので、又開運の御佛でもあり所願成就せざるなきあらたかな観音として一般の信仰を集めています。(実相院掲示より)

「ブックレット足立風土記伊興地区」による実相院の縁起

実相院(伊興四丁目)
真言宗豊山派。山号は宝光山横沼寺。本尊聖観世音菩薩は、古くから子育て観音として信仰をあつめ、都の有形文化財に指定されています。かつて子育て観音を安置した観音堂の境内は広大であり、当寺の西南にあたる字仁王島(現西新井四丁目)にはかつて仁王門がありました。また、当寺には江戸時代半ば、御三家紀伊徳川藩主宗将が奉納したとされる仏画両界曼荼羅(区指定文化財)があります。(「ブックレット足立風土記伊興地区」より)

新編武蔵風土記稿による実相院の縁起

観音堂
正観音を安ず、行基の作なり、土人伊興の観音と稱す、縁起の略に云、康平六癸卯の春、源頼義父子奥州征伐の時、村内應現寺に宿陣あり、この観音に宿願ありしかば、勝利を得たり、されば帰洛の砌十三丁の寺領を附せられ、其後承応年中武蔵守成實位階を捨て、東国に下向し、此堂に参籠あり、帰依の餘仏閣を建立せしに、文承元年五月十七日祝融の災にかかり、寺寳記録を失ひし由を記して、其後のことはかつて傳はらず、按に康平六年は癸酉にして癸卯にはあらず、藤原成實は承徳二年武蔵守に任ぜられし事ものに見えたり、これによりても疑わしき寺傳なること知べし、又其頃は境内も広大にして、ここより西の方六七町に仁王嶋と云字あり、これ昔寺の仁王門ありし所と云。
鐘楼。安永五年九月十八日の鋳造なり。
横沼。小池なり、大さ十歩許。
別當實相院。
新義真言宗、西新井村総持寺末、放光山と號す、鐘銘の序に放光山者行基の草創と記して、又末に實光山と出し、文字を混ぜて記せり、これ等は其頃文字たがひに用ひしにや、又この序文によれば、當寺古は台教の寺院なるべし、本尊十一面観音は弘法大師の作なりと云。
天神社。稲荷を合祀せり、この所を御腰掛跡と云、有徳院殿此邊へ屢御遊猟ありし頃、この所に御休らひ場あり、其蹟を穢さんことを恐れて、後小祠を置と云。(新編武蔵風土記稿より)

足立風土記資料寺院明細による実相院の縁起

中本寺西新井大師総持寺末 東京府管轄武蔵国足立郡伊興村 放光山実相院
創立年暦并開山不詳、香衣一色着用寺格
第35世光覚52歳。埼玉県管轄武蔵国埼玉郡西方村農合田勝五郎二男、天保2年7月12日右同村於安養院得度、安政3年6月12日入寺、本山小池坊留学9ヶ年。以上僧一人。
境内、2反5畝歩、但除地。檀家36軒。門末無之。庵室等無之(足立風土記資料寺院明細より)


実相院の周辺図


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