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保木間氷川神社|足立区西保木間の神社、保木間村村社、保木間の誓い

保木間氷川神社の概要

保木間氷川神社は、足立区西保木間にある氷川神社です。保木間氷川神社の創建は詳らかでありませんが、保木間氷川神社前を東西に通る流山道が戦国時代以前に成立しており、また当地に千葉氏の陣屋跡があったことから、慶長年間(1596年ごろ)以前に宝積院と時期を同じくして創建されたと考えられます。天神社と称していましたが、明治5年に伊興氷川神社から分離して、保木間氷川神社と称し、村社となっております。

保木間氷川神社
保木間氷川神社の概要
社号 保木間氷川神社
祭神 須佐之男命、豊受姫命、菅原道真公
相殿 -
境内社 稲荷神社(宇迦之御魂命・疱瘡大神)、榛名神社
住所 足立区西保木間1-11-4
備考 保木間村村社



保木間氷川神社の由緒

保木間氷川神社の創建は詳らかでありませんが、保木間氷川神社前を東西に通る流山道が戦国時代以前に成立しており、また当地に千葉氏の陣屋跡があったことから、慶長年間(1596年ごろ)以前に宝積院と時期を同じくして創建されたと考えられます。天神社と称していましたが、明治5年に伊興氷川神社から分離して、保木間氷川神社と称し、村社となっております。

新編武蔵風土記稿による保木間氷川神社の由緒

(保木間村)天神社
社地古は千葉氏の陣屋ありし所にして、天神を勧請せしは其後のことなりと云
末社。稲荷社、疱瘡神社。(新編武蔵風土記稿より)

足立区教育委員会掲示による保木間氷川神社の由緒

祭神として、須佐之男命、豊受姫命、菅原道真を祀る。
当社の創建は明らかではないが、中世この地は関東の豪族千葉氏の陣屋跡と伝えられ、妙見社が祀られ、のち天神を祀る菅原神社となった、それ故に隣接の天神社別当寺宝積院は、その山号を北斗山と称するという。
江戸時代、保木間・竹塚・伊興三村の鎮守は、もと伊興氷川社で、明治の初め当社もそこに合祀されたが、明治5年分離して、社名を氷川神社と改め保木間村の鎮守となった。
この地域一帯は、伊興地区について早く開け、平安期末から鎌倉期にかけて発展した。保木間の地名は、平安期末に西国の武士が木の柵を設け、田畑を起こしたことによると伝えている。またこの地域では、古墳時代の土師器や鎌倉期以降の板碑などが多く出土している。
平成元年1月 足立区教育委員会

足立風土記資料神社明細による保木間氷川神社の由緒

東京府管下武蔵国南足立郡(淵江村大字)保木間村字内耕地 村社氷川神社
祭神 建速須佐之男命、豊受姫命、菅原道真公。
由緒 伝聞ニ人皇51代平城天皇御宇大同年間ニ山城国ノ人当地ニ来リテ開拓スト云、其玄孫山城国宇治郡ニ住居シ菅原道真ノ御徳ヲ尊ヒ従ヒテ文筆ヲ学フ、陽成天皇御宇元慶ノ始メ親ヲ従ヒテ当地ニ下リ、醍醐天皇御宇延喜元年ニ菅公筑紫ノ国ヘ左遷セラレシオ聞テ大ニ驚日々歎、同3年甍逝サセ賜ヘリシ事ヲ聞ニ依テ一宇ヲ建テ、菅公ノ御自筆ヲ神璽トシ菅公ノ霊社ヲ祭ル後ニ天満宮ト称ス、神威益盛ニシテ利益歩ニ従ヒ霊験遠近ノ里里ニ応ス、「其神霊ヲ仰キ尊ヒ奉リテ官僧来ニ奉仕ス、神宮寺宝積院ト唱ヘテ別当ト成」天喜年中奥州戦争ノ頃菅公御自筆ヲ紛失ス木像ノミ残りテ、明治5年11月27日村社ニ被定。
社殿間数 本社、間口9尺半奥行9尺。拝殿、間口3間奥行2間。社務所、間口3間半奥行3間。神器庫、間口2間奥行9尺。
境内坪数 674坪 官有地第1種
境内神社2社。
稲荷神社。祭神宇迦ノ御魂命。由緒不詳。建物本社、間口3尺奥行6尺。
榛名神社。祭神建速須佐之男命。由緒不詳。建物石宮、間口2尺奥行2尺。
境外所有地 田1畝9歩、保木間村字内耕地。地価金8円35銭1厘。田8歩、同所内耕地、地価金1円82銭1厘。田15歩、同所内耕地、地価金3円42銭。田9畝5歩、保木間村字野耕地、地価金50円90銭8厘。田24歩、同所内耕地、地価金5円50銭8厘。林5畝18歩、同所内耕地、地価金1円96銭。地価金15円60銭
氏子戸数 233戸
東京府庁迄 3里30町。以上(足立風土記資料神社明細明治10年項より)


保木間氷川神社の関連事項

流山道

本説明板の前(保木間氷川神社前)を東西に走る小道は、江戸の昔から流山道と呼ばれた古道である。保木間で日光道中からわかれ、南花畑、内匠橋、六木を経て流山に向かう。この道に隣接する宝積院と保木間氷川神社は戦国時代の武士・千葉氏の陣屋があったと伝えられることから、道の成立は戦国時代以前にさかのぼると考えられる。
この道を東進すると花畑大鷲神社や成田山と結んでおり、西に進むと西新井大師総持寺に通じる信仰の道でもある。ここから大師道・成田道という別称もある。なお沿道には寺院・神社や旧村地帯が分布し、保木間の旧家の多くもこの道に沿って建っており、地域の歴史を今に伝える。
平成10年9月 足立区教育委員会

田中正造と保木間の誓い

1890年代に発生した足尾銅山鉱毒事件は近代史上で特筆される公害事件である。1898年(明治31)9月群馬県邑楽郡・栃木県安蘇郡等の被害住民3000人が鉱毒被害を訴えるため上京した。
被害問題に取り組んだ田中正造(当時衆議院議員)は、同年9月28日、上京する被害住民とここ保木間氷川神社で出会い、鉱毒問題の解決に努力するという演説を行い、被害住民を帰郷に導いた。この時被害住民は涙して演説を聞いたといい、これを保木間の誓いという。
当時東京府南足立郡淵江村だったこの地では、村長坂田正助と村会議員が、上京途中憲兵や騎馬警官による阻止・排除を受けた被害住民に、炊き出しを行って出迎え、被害住民と共に正造の演説を聞いた(「田中正造日記」)。こうした被害住民への支援は淵江村の人々と被害住民の農民同士の連帯感によって支えられていたという。
平成10年9月 足立区教育委員会


保木間氷川神社の周辺図


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